『東京では美味いうどんがなかなか食べられない。』 随分前から言われつづけていた言葉です。僕ら四国生まれの人間にとっても、半ば諦めの気持ちで、東京に来てからはほとんど「うどん」を口にすることはありませんでした。
もちろん、以前から、讃岐うどんを看板に掲げ、本場のコシを伝えようと長年がんばっていらっしゃる先輩たちが何人もいらっしゃいます。しかし、表舞台に出る機会は少なかった。
僕達でやってやろうと。僕達で東京にうどん文化を浸透させてやろうと。喫茶店の「スパゲティー」がパスタ屋の「パスタ」になったように、蕎麦屋の「うどん」ではなく、うどん屋の「うどん」を当たり前に食べられるようにしよう。
それぞれが会社勤めをしたり、学生だったりした僕達3兄弟は、プランを暖め、少しずつ、着実に前に進めて独立しました。東京に、「讃岐うどんブーム」のようなものがやってくる随分以前の1999年でした。
オープン当初は、「蕎麦は置いてないの?」とよく聞かれました。「うどん専門店なんです。」と答えると怪訝な顔できびすを返すお客様もいらっしゃいました。
それでも、一口目食べていただいたお客様の一瞬びっくりしたような顔が嬉しくて、今日までがんばってまいりました。
四国愛媛の実家はうどん屋を営んでいます。親父は香川県高松市の出身で、電電公社に勤めていたのですが、一念発起脱サラして、慣れ親しんだうどんの店を、当時まだうどん屋が少なかった愛媛県川之江市に開きました。もう30年も前のことです。
子供の頃から、半分親にだまされながらうどん踏みを手伝わされていた記憶があります。
もくもくとうどんを作る親父と、笑顔で帰っていくお客さんと、そんなものを見て育ってきました。知らぬ間に同じ道を歩んでいます。
うどん屋を開業するに当たって3つのこだわりがありました。
1つは、いつも茹でたての麺を提供すること。
本場の香川県のうどん屋でさえ、いつも茹でたての麺が出てくるとは限りません。
お客のほうで、今日は当たりだ、はずれだ、時間が時間だから茹で置きでもしょうがないね、と許容してくれます。
それはおかしいと思った。同じお金を払いながら、美味しかったりまずかったりするのはおかしいと。
いつ来てもらっても、自家製にこだわった同じ品質の麺を出そうと思いました。だから、15分お待たせしてしまうこともあります。茹であがった麺は15分から20分で廃棄するのでロスも大きい。でも、本場のコシを広めるには絶対曲げられないポリシーです。
2つ目は、他では食べられない「創作うどん」を看板にしようということ。
讃岐のうどん屋をそのままコピーして持ってくるのは、別に僕達じゃなくても誰かがやるだろうと。だから、あえて看板にもパンフレットにも「讃岐うどん」という言葉は入れなかったのです。僕らが提供するのは、讃岐うどんをベースにした、あくまでもオリジナルの「創作うどん」。軽い食事と思われがちなうどんを、ちゃんと1食に数えてもらえる、どこでも食べられない、お食事感のあるうどんを作りたかった。病人食や、年配の人の食べ物というイメージも払拭したかった。ターゲットは僕らと同世代の20~30歳代でした。
そして3つ目は、全て手作りにこだわること。
夜は、居酒屋メニューを中心としたメニューに切り替わります。巷には「ホントに冷凍食品?」というような手の込んだ見栄えのいい食品がたくさん流通しています。今までお客側だったときは、おそらくそれと気付かないで、手作りメニューの肩書きにだまされて食べていたこともあったと思います。それほど冷凍食品業界は進化しています。
でも、僕達は絶対使わないでおこうと思った。同じ物がよその店で食べられるのであれば、僕らの存在価値はないと。
毎日おすすめ料理を考えたり、月替わりのメニューを考えたり、スタッフには非常に苦労をかけていると思います。でも、その嘘の無いこだわりが、自信と規律につながっていると思うのです。
『一滴八銭屋』という店名は、3人で出し合った50個近い候補の中から選びました。飲食業界には門外漢の僕達が、お金をもらって食べ物を提供する。とても緊張していましたし、恐ろしくもあった。この緊張感は、ずっと忘れてはならない。例え一滴のつゆにもお代を頂戴しているのだと。その思いを心に刻むためこの店名にしました。
(一か八かという起業当時の気持ちも裏に含まれたりしています・・・)
スタッフとよく話します。
「自分達自身が行きたくなる、更には、両親や恋人や、自分の一番大事な人を連れてきたくなる店にしよう。」と。 ピーク時のてんてこ舞いの時に料理の手を抜いたり、気配りができなかったり、そういう店には、客として大事な人を連れてきて「いい店でしょ?」って自慢できません。
『自分たちが行きたくなる店をつくる。』
それが、僕達の、迷ったときの呪文です。
2004年1月
代表取締役 大藪 由一郎
Profile
1968年、愛媛県川之江市(現・四国中央市)生まれ。四国の実家は父の代から「うどん屋」を始める。高校卒業後念願の上京、早稲田大学に進学。大学在学中に一年休学しアメリカからヨーロッパ、アジアを巡る地球一周を一人旅。世界中の優しい人達と食べ物に出会う。その後、建築関係の会社に入社。1998年、30歳の節目に弟・義弟と共に会社を設立。翌1999年1月、『一滴八銭屋』新宿本店、オープン。
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商号 | 一滴グループ株式会社 |
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本社所在地 | 〒160-0023 東京都新宿区西新宿1-15-9 |
代表電話 | 03-3342-8889 |
メールアドレス | info@itteki.com |
店舗 |
・一滴八銭屋 新宿本店(新宿西口)
・串天ぷら 段々屋(新宿西口) ・粗挽き蕎麦 トキ(新宿南口) ・空ヲ見アゲル頂上ラウンジ ソロ山(新宿西口) |
役員 | 代表取締役 大藪 由一郎 |
資本金 | 1,000万円 |
設立 | 1998年12月 |
従業員数 | 正社員11名 アルバイト35名 |
1998年
うどん屋を開業する決意をした僕達3兄弟は、実家のうどん屋に修行に行き、親父に弟子入り志願、朝から晩までほとんど休まずうどん作りに明け暮れました。
1999年1月
ついに『一滴八銭屋新宿本店』オープン。その当時は、東京に、「讃岐うどんブーム」のようなものがやってくることを誰も予想していませんでした。 オープン当初のことは、まったく覚えていません。とにかく食べていただいたお客様に満足して頂けたかどうか、うどんを作りながらも、不安で、その瞬間、その瞬間が止まっているように感じ、必死でした。オープンから3ヶ月が過ぎようとしていたころ、不安から自信、自信から確信に変わり、ようやく「いける」という手ごたえを感じることができました。
2002年12月
自分達の本当の力を試そうと、麺の激戦区「恵比寿」に満を持して『一滴八銭屋恵比寿店』をオープンしました。
2004年10月
田町に、日本酒と週替わり8品のお通しで「古き良き日本人の時間」を楽しんでいただく一軒家和食『おまかせ料理 滴屋』をオープンしました。
2008年2月
一滴八銭屋新宿本店の向かいに新業態『串天ぷら段々屋』をオープン。
おまかせ揚げの串天ぷらとシャンパンをあわせる斬新なスタイルを提案し、串天ぷら専門店の元祖となりました。
2011年3月
東日本大震災発生。
2011年4月
東京駅「グランスタ」内に段々屋の天丼販売ブースを1ヶ月間限定出店。
2011年6月
神楽坂に新業態『湯麺餃子ねじ巻』をオープン。
透き通った塩旨スープのタンメンと皮は讃岐うどん粉で作る特製肉汁餃子がメインの餃子酒場。(2012.9事情により緊急閉店)
2011年7月
一滴八銭屋恵比寿店、10年間の営業を終了。
2013年9月
新宿南口に新業態『粗挽き蕎麦トキ』開店。
山形産蕎麦粉十割の極粗挽き田舎蕎麦と地酒が楽しめるお店。ひとり飲み女性も多いカウンターメインの十割蕎麦居酒屋です。
2014年5月
共同創業者の油野専務独立。『おまかせ料理 滴屋』を譲渡。
2018年4月
「有限会社一滴八銭屋」より「一滴グループ株式会社」に社名変更及び株式会社化。
2023年8月
新宿西口に新業態「空ヲ見アゲル頂上ラウンジ ソロ山」をオープン。